琉球王国年表 |
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西暦 | 在位年 和暦 |
国王 | 琉球王国の出来事 | 日本の出来事 |
1372 | 察度23 | 察度 | 中山王(チュウザンオウ)察度(サット)が明の洪武帝(コウブテイ)の要請により初めて明に使者を送る。 | |
1392 | 察度43 | 〃 | 久米三十六姓(クメサンジュウロクセイ)が明の洪武帝より琉球王国に下賜(かし)される。 | 南北朝統一(1392年) |
1396 | 武寧1 | 武寧 | 察度の子、武寧(ブネイ)が中山王になる。 | |
1404 | 武寧9 | 〃 | 武寧がシャム(タイの旧国名)と冊封貿易を行う。 | 日明貿易(勘合貿易) |
1406 | 尚思紹1 | 尚思紹 | 佐敷按司(サシキアンジ)尚巴志(ショウハシ)が中山王武寧を滅ぼす。 | |
1406 | 〃 | 〃 | 尚巴志の父である尚思紹(ショウシショウ)が中山王に即位し、「第一尚氏王朝」が始まる。 | |
1416 | 尚思紹11 | 〃 | 尚巴志が今帰仁城(なきじんぐすく)の北山王(ホクザンオウ)(北山国)を滅ぼす。 | |
1419 | 尚思紹14 | 〃 | シャム(タイの旧国名)へ交易船を3隻派遣する。 ※琉球船が外国に渡航する交易船には、すべて「執照」という証明書が支給された。 |
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1420 | 尚思紹15 | 〃 | 首里城第一次拡張工事(内郭と呼ばれる城壁工事)が始まる。 | |
1427 | 尚巴志6 | 尚巴志 | 国相(現在の総理大臣)の懐機(カイキ)の主導で、「首里城の外苑と龍潭(リュウタン)」を造営する。 ※龍潭では、中国から来た冊封使(さくほうし=中国の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節)をもてなす龍舟競漕(ハーリー)などの宴がもよおされた。 |
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1428 | 尚巴志7 | 〃 | 中山門(国門)を創建する。 ※中山門建立の約100年後に建立された守礼門とは双子のような存在で、中山門は下の綾門(あやじょう)、守礼門は上の綾門と呼ばれ、二つの綾門を結ぶ道は、「綾門大道(あやじょううふみち)」と呼ばれました。 |
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1428 | 〃 | 〃 | パレンバン(現:インドネシアの都市)へ交易船を派遣する。 | |
1429 | 尚巴志8 | 〃 | 尚巴志が南山国(ナンザンコク)を滅ぼし、三山(サンザン)を統一する。 | |
1430 | 尚巴志9 | 〃 | ジャワ(インドネシア)へ交易船を派遣する。 | |
1451 | 尚金福2 | 尚金福 | 細川勝元が兵庫津(兵庫県)に入港していた琉球船のもとへ人を送り、商物を取得しながら代金の支払いをせず、押し取った物を返さないという事件を起こした。 | |
1451 | 〃 | 〃 | 尚金福(ショウキンプク)主導で、海中道路「長虹堤(チョウコウテイ)」を建築し、長虹堤完成の後、懐機は神に感謝するため天照大神を祀る神社と長寿寺と呼ばれる寺院を建立した。 ※明からの冊封使を迎え入れるため、浮島と呼ばれる小港(那覇)を貿易港として整備し、那覇市松山付近にあった伊辺嘉麻(いべがま)から崇元寺付近(那覇市泊)までの約1kmを結んだとされる。建設当初は、「浮道」と呼ばれていたが、尚豊王(ショウホウオウ)の冊封正使(さくほうせいし)杜三策(とさんさく)の従客である胡靖(こせい)が「遠望すれば長虹の如し」と述べたことから「長虹堤」と呼ばれるようになった。 |
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1453 | 尚金福4 | 〃 | 「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」が起こり、首里城が全焼する。 ※第一尚氏王統5代目の尚金福が亡くなった直後、金福の弟、布里(ふり)と、金福の子、志魯(しろ)が6代目の王座をめぐって起こした争いで、その争いはすさまじく、首里城は全焼し、志魯・布里の両方が死んだといわれています。 |
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1454 | 尚泰久1 | 尚泰久 | 尚泰久(ショウタイキュウ)が即位する。 | |
1458 | 尚泰久5 | 〃 | 万国津梁の鐘(旧首里城正殿鐘)を鋳造する。 | |
1458 | 〃 | 〃 | 「護佐丸(ゴサマル)・阿摩和利(アマワリ)の乱」が起こる。 | |
1463 | 尚徳1 | 尚徳 | マラッカ(現:マレーシアの都市)へ交易船を派遣し、マラッカ国王(スルタン・マンスール)への書簡を託して同船の交易の便宜を図ってくれるよう依頼し、絹織物・腰刀・扇・青磁器などの品を贈った。 | |
1466 | 尚徳4 | 〃 | 尚徳(ショウトク)自ら2千~3千の兵を率いて大島や喜界島などを制圧し、奄美群島全域を琉球王国の支配下に置き、琉球王国の版図に加えた。 ※国王自ら軍を率いて討伐に向かうのは、祖父である尚巴志王以来のことであった。 |
応仁の乱(1467年~1477年) |
1466 | 〃 | 〃 | 那覇に泊地頭(泊港)を置き、奄美群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け、大島御蔵と呼ぶ。 ※琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見している。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。 |
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1469 | 尚徳7 | 〃 | 尚徳王が29歳で薨去(こうきょ)する。 直後に、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(カナマル)(後の尚円王)がクーデターを起こし、後継ぎも含め、第一尚氏王統一族はことごとく殺害、追放され、第一尚氏王統は滅亡した。尚徳王が第一尚氏王統最後の国王となった。 |
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1469 | 尚円1 | 尚円 | 金丸が前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円(ショウエン)と改名し、「第二尚氏王朝」が始まる。(1469年から1879年までの410年間、琉球王国を統治した琉球最後の王朝となる) | |
1476 | 尚円8 | 〃 | 尚円王が61歳で薨去する。 | |
1477 | 尚宣威1 | 尚宣威 | 尚宣威(ショウセンイ)(尚円の弟)が即位するが、半年で退位する。 | |
1477 | 尚真1 | 尚真 | 尚真(ショウシン)(尚円の息子)が即位する。 | |
1477 | 〃 | 〃 | 「歓会門(かんかいもん)」が創建され、首里城第二拡張工事(外郭と呼ばれる城壁工事)が始まる。 | |
1481 | 尚真4 | 〃 | 室町幕府に派遣した紋船(あやぶね)(慶賀船)が薩摩国(現:鹿児島県)に到着する。 ※紋船とは、島津氏の当主就任などの慶賀すべき行事で、琉球が派遣した飾り立てた非武装船です。 |
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1490 | 尚真13 | 〃 | パタニ(現:タイの都市)へ交易船を派遣する。 | 山城国一揆(1485年~1493年) |
1492 | 尚真15 | 〃 | 尚真王が父である尚円王を祭るために、鎌倉円覚寺を模して「円覚寺(えんかくじ)」を創建する。 | |
1500 | 尚真23 | 〃 | 八重山の首領であるオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)と、琉球王国との間で「オヤケアカハチの乱」が起こり、アカハチを殺害し、琉球が勝利する。 | |
1501 | 尚真24 | 〃 | 尚真王が父である尚円王の遺骨を改装するために、「玉陵(たまうどぅん)」を創建する。 | |
1502 | 尚真25 | 〃 | 首里城内の湧水・雨水を集めるために、「円鑑池(えんかんち)」を掘り、航海安全を司る水の女神・弁財天を祀(まつ)るために、円鑑池の中の島に経堂「弁財天堂(べざいてんどう)(びでーてぃんどー)」を建立する。 | |
1506 | 尚真29 | 〃 | 首里城北殿が創建される。 | |
1508 | 尚真31 | 〃 | 首里城正殿に青石の石「高欄(こうらん)」と輝緑岩(きりょくがん)の「大龍柱(だいりゅうちゅう)(初代)」を設置する。 首里城正殿前の欄干の碑銘「百浦添欄干之銘 (ももうらそえらんかんのめい)」を正殿基壇(きだん)の高欄に刻む。 |
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1509 | 尚真32 | 〃 | 「金銀の簪(ジーファー、かんざし)」によって身分の高い人と低い人に分る「琉球の位階(りゅうきゅうのいかい)」を定め、1524年には、「六色の冠(ハチマチ)」によって等級が制定される。 | |
1509 | 〃 | 〃 | 安南(現:ベトナム)へ交易船を派遣する。 | |
1513 | 尚真36 | 〃 | スンダ(現:東南アジアのスンダ列島)へ交易船を派遣する。 | |
1519 | 尚真42 | 〃 | 西塘(にしとう)によって、「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」と「弁ヶ嶽(べんがだけ)」の石門を創建する。 | |
1522 | 尚真45 | 〃 | 「真珠道(まだまみち)」を建設し、「真玉橋(まだんばし)」が架橋される。 | |
1523 | 尚真46 | 〃 | 首里城瑞泉門(ずいせんもん)の左下に「龍樋(りゅうひ)」を創建する。 | |
1529 | 尚清3 | 尚清 | 首里城外第二の楼門「首里門(しゅりもん)(守礼門)」を創建する。 ※「守禮之邦(しゅれいのくに)」とは、「琉球は礼節を重んずる国である」という意味を持ってます。 |
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1531 | 尚清5 | 〃 | 首里王府によって「おもろさうし(おもろそうし)第一巻」が編集される。「おもろ」は「思い」、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となる。全22巻が編纂される。 | |
1546 | 尚清20 | 〃 | 首里城東南の城壁を二重にし、「継世門(けいせいもん)」を築く。 | キリスト教伝来(1549年) |
1547 | 尚清21 | 〃 | 守礼門から西側に向かって下る綾門大道(あやじょううふみち)沿いに、首里城内の女性の休養・産所、また冠婚葬祭などの礼式を行う「大美御殿(うふみうどぅん)」を創建する。 | |
1554 | 尚清28 | 〃 | 倭寇(わこう)(海賊)に備えるため、那覇港入口南に「屋良座森城(やらざもりぐすく)」を創建する。 | |
1562 | 尚元7 | 尚元 | 奉神門(ほうしんもん)の基壇(きだん)に「石高欄(いしこうらん)」が取付けられた。 ※奉神門には3つの入口があり、中央は国王や中国からの冊封使(さくほうし=中国の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節)のみが通ることができた入口です。 |
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1570 | 尚元15 | 〃 | 琉球へ渡航する船を島津氏発給の印判「琉球渡海朱印状(りゅうきゅうとかいしゅいんじょう)」で管理し、印判を持たない商船との交易不許可を要求する。よって、琉球は、シャムとの交易を最後に、琉球王国は東南アジアとの交易に終止符を打つ。 | 室町幕府滅亡(1573年) |
1588 | 尚永16 | 尚永 | 豊臣秀吉が島津義久を通じて、「琉球国服属交渉(日本に従わなければ軍を派遣して琉球をつぶす)」をするための使節を派遣するよう要求する。 | 本能寺の変(1582年) |
1589 | 尚寧1 | 尚寧 | 尚寧(ショウネイ)が豊臣秀吉に対して使節を派遣する。 | 豊臣秀吉全国統一(1590年) |
1591 | 尚寧3 | 〃 | 豊臣秀吉による「唐入り(とういり)(朝鮮出兵)」の動員令で、琉球王国は、島津氏の「与力(よりき)」に付したが、尚寧王は課された兵糧米と金銀をすべて供出することはせず、また秀吉軍の動向を明(中国)に伝えるなどの抵抗の姿勢を示した。 | |
1593 | 尚寧5 | 〃 | 琉球王国は、要求された朝鮮出兵の負担の大部分を調達する。 | 朝鮮出兵(1592年) |
1598 | 尚寧10 | 〃 | 明(中国)へ豊臣秀吉の死去を報告する。 | 関ケ原の戦い(1600年) |
1602 | 尚寧14 | 〃 | 陸奥の伊達領に漂着した琉球人を島津家久に命じて本国に送還させ、琉球に対して「聘問使(へいもんし)」の派遣を要求したが、琉球王国がそれに応ぜず、来聘問題は薩琉間の政治問題となる。 ※徳川政権は、16世紀半ばに断絶した日明両国の国交回復を対外政策の基本とし、そのための対明交渉を琉球に斡旋させる目的だったとされている。 |
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1604 | 尚寧16 | 〃 | 島津義久は、尚寧王に対して漂流者を送り届けたことに対する返礼の使節を送るよう要望する。 ※徳川家康が漂流者を送り届けた理由として、豊臣秀吉が琉球王国を島津氏の「与力(よりき=軍事指揮下にあるとみなしたこと)」が根拠で、「琉球王国が薩摩の従属国であるから」としています。 |
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1605 | 尚寧17 | 〃 | 野国が中国から甘藷(さつまいも)を持ち帰る 野國總管(総官)(北谷間切の野国村生まれ)が中国に渡り、甘藷(かんしょ=さつまいも)を持ち帰る。 ※当時の琉球王国は貧しく、貧困にあえぐ人々は、甘藷によって救われたといわれています。 |
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1606 | 尚寧18 | 〃 | 謝名利山が久米村人として初めて「三司官(宰相職)」に就任する。 ※通常、久米村人の最高官職は、「三司官座敷(政治を司る三司官の国議の場に列席して意見を述べる官職)」までとなっているので、謝名利山の三司官就任は異例のことだった。 徳川家康が島津家久に大島出兵の許可を出し、琉球王国敗北により薩摩に連行された国王・三司官らに対して忠誠を誓う誓約書を提出させたが、謝名利山ただ一人が連判を拒否し、薩摩藩により斬首される。 ※謝名利山は、薩摩抑留中に、長崎に来航した中国船にひそかに救援依頼したが失敗している。 |
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1609 | 尚寧21 | 〃 | 薩摩藩が琉球王国に侵攻・侵略する。島津氏が琉球王国に出兵する。 薩摩軍は、3月初旬に約3,000の兵と100隻の軍船により琉球王国に侵攻・侵略する。鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島、徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、3月25日に沖縄本島北部の運天港に上陸し、27日には、今帰仁城を陥落させる。3月29日に読谷に到着した薩摩軍は、陸路と海路からを使い、4月1日に那覇の首里に到着する。 ※琉球王国が、薩摩藩藩主の島津家久の支配下におかれる。 |
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1609 | 〃 | 〃 | 薩摩軍に対して琉球軍も抵抗したが、圧倒的な軍事力を持つ薩摩軍を相手になす術もなく、4月5日に琉球国王である尚寧王が降伏を申し入れ、首里城が占拠されろ。その後、尚寧以下重職にあった者達は、薩摩に連行される。 | |
1610 | 尚寧22 | 〃 | 尚寧王は、島津家久ともに駿府城(すんぷじょう)で徳川家康・秀忠に謁見する。 | |
1610 | 〃 | 〃 | 薩摩藩による「慶長検地(けいちょうけんち)」が行われ、検地帳が作成される。 | |
1611 | 尚寧23 | 〃 | 尚寧王は、薩摩から帰国の際、島津家久による琉球支配の枠組みを定めた「掟十五カ条(おきてじゅうごかじょう=法度十五条)」を押しつけられ、琉球王国は、薩摩藩の実効支配を受けることになる。 | |
1611 | 〃 | 〃 | 尚寧王が「起請文」(きしょうもん)に署名し帰国する。 | |
1611 | 〃 | 〃 | 儀間真常(ギマシンジョウ)が薩摩より木綿の種を持ち帰る。 | |
1613 | 尚寧25 | 〃 | 薩摩へ「年頭使(ねんとうし)」として「馬氏伊計親方良徳(ヤマウジイケイペーチンリョウトク)」を派遣する。 ※年頭使とは、年頭慶賀のために派遣される使者のことである。 |
武家諸法度(1615年) |
1613 | 〃 | 〃 | 首里王府によって「おもろさうし(おもろそうし)第二巻」が編集される。 | |
1621 | 尚豊1 | 尚豊 | 首里城南殿が創建される。 | |
1621 | 〃 | 〃 | 1609年の薩摩侵攻で倒壊した経堂「弁財天堂(べざいてんどう)(びでーてぃんどー)」を再建し航海安全を司る水の女神・弁財天を祀(まつ)る。 | |
1623 | 尚豊3 | 〃 | 儀間真常(ギマシンジョウ)が黒糖を製造する。 | |
1623 | 〃 | 〃 | 首里王府によって「おもろさうし(おもろそうし)第三巻以下第二十巻」が編集される。 | |
1624 | 尚豊4 | 〃 | 「八重山キリシタン事件(やえやまキリシタンじけん)」が起こる。 | |
1627 | 尚豊7 | 〃 | 首里城南殿が竣工する。 | |
1631 | 尚豊11 | 〃 | 薩摩藩は、那覇に在番を設置し、「琉球在番奉行(りゅうきゅうざいばんぶぎょう)」が常駐する。 | |
1634 | 尚豊14 | 〃 | 佐敷王子朝益(サシキオウジチョウエキ)は、慶賀使(けいがし)として二条城で徳川家光に謁見する。慶賀使、謝恩使(しゃおんし)が始まる。 | |
1635 | 尚豊15 | 〃 | 砂糖・鬱金の専売制「鬱金専売制度(うこんせんばいせいど)」が始まる。 | 参勤交代制度化(1635年) |
1636 | 尚豊16 | 〃 | 薩摩藩の命により、琉球国王の王号を剥奪され、「琉球国司(りゅうきゅうこくし)」に改称(国司号問題)する。 | 島原の乱(1637年) |
1644 | 尚賢4 | 尚賢 | 琉球慶賀使(りゅうきゅうけいがし)が島津光久に率いられて日光東照宮に参詣(さんけい)し、香炉と花瓶を献上する。 | |
1649 | 尚質2 | 尚質 | 清の招諭使(しょうゆし)である謝必振が琉球に渡来し、清への服属を要求する。尚質王は、「投誠」の表を北京に奉じることとして、清への服属を決定する。 | |
1650 | 尚質3 | 〃 | 薩摩支配下において書かれた琉球王国の初めての正史(せいし)「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)(全6巻)」を羽地朝秀(ハネジチョウシュウ)が編纂する。 | |
1653 | 尚質6 | 〃 | 明の鍍金銀印(ときんぎんいん)=琉球国王之印(りゅうきゅうこくおうのいん)・詔勅(しょうちょく)を清に返還する。 | |
1654 | 尚質7 | 〃 | 琉球国王は、中国の清に使臣(ししん)を派遣し、冊封(朝貢貿易)を求める。 | |
1659 | 尚質12 | 〃 | 宮古・八重山の人頭税(じんとうぜい)の租税額が一定となる「貢布賦課法(こうふふかほう)」を制定する。 | |
1660 | 尚質13 | 〃 | 9月27日、首里城正殿が炎上、消失する。王府を大美御殿に移すも財政事情が悪化する。 | |
1661 | 尚質14 | 〃 | 羽地朝秀が首里城再建の援助要請で薩摩に向かう。 龍潭の北岸沿い道路に旧慈恩寺(じおんじ)の橋を移設し、世持橋(よもちばし)となる。 友寄景友(トモヨセカゲトモ)が大和(日本)の大日寺(だいにちじ)から「大日如来像(だいにちにょらいぞう)」を取り寄せ、久米村の下天妃廟(しもてんぴびょう)に安置する。 |
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1664 | 尚質17 | 〃 | 琉球王国の不祥事に薩摩藩が介入、処分した「北谷恵祖事件(ちゃたんえそじけん)」が起こる。 | |
1666 | 尚質19 | 〃 | 羽地朝秀が摂政(せっしょう=国王を補佐し国務をつかさどる大臣)に就任する。 | |
1667 | 尚質20 | 〃 | 儀保親雲上為宜(ギボペーチン)(蘇巨昌)が大龍柱(2代目)を製作する。 | |
1669 | 尚貞1 | 尚貞 | 羽地朝秀が薩摩の許可を得て仕明(新規に開墾した農地の永代所有を認め、開墾を奨励する)を許可する。 | |
1671 | 尚貞3 | 〃 | 首里城が再建される。 首里城正殿の板瓦葺屋根(いたかわらぶきやね)を瓦葺屋根(かわらぶきやね)にする。 |
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1673 | 尚貞5 | 〃 | 久米村に「孔子廟(こうしびょう)」が創建される。 | |
1677 | 尚貞9 | 〃 | 首里城東苑「御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)」が創建される。 | |
1682 | 尚貞14 | 〃 | 平田典通(ヒラタテンツウ)(唐名:宿藍田(シュクランデン))が五彩焼瓷(ごさいやきかめ)による「籠頭棟飾(りゅうとうむなかざり)(龍頭彫甍(りゅうとういらか))」を首里城正殿の屋根に設置する。 | |
1689 | 尚貞21 | 〃 | 系図奉行「系図座(けいずざ)」を設置し、士族層(官人、役人層)には系図(家譜)が求められ、それによって土・農身分の確立が行われた。 | |
1697 | 尚貞29 | 〃 | 首里王府によって琉球王国の外交文書を記録した漢文史料「歴代宝案(れきだいほうあん)」第一集(49巻)が編集される。 | |
1701 | 尚貞33 | 〃 | 蔡鐸(サイタク)が「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」を編纂する。 | |
1707 | 尚貞39 | 〃 | 程順則(テイジュンソク)が「六諭衍義(りくゆえんぎ)」を編纂する。 | |
1709 | 尚貞41 | 〃 | 「丑年の大飢饉(うしどしのだいききん)」が起こり、当時の人口20万人中、3,199人の死者を出す。 | |
1709 | 〃 | 〃 | 11月20日、首里城正殿・南殿・北殿が全焼する。 | |
1711 | 尚益2 | 尚益 | 首里王府が和文学者の識名盛命(シキナセイメイ)に命じて、琉球古語辞典「混効験集(こんこうけんしゅう)」を編纂する。 | |
1712 | 尚益3 | 〃 | 首里城正殿が再建される。 | |
1712 | 〃 | 〃 | 謝敷宗逢(趙氏謝敷筑登之親雲上宗相(チョウウジジャイチチクドゥンペーチン))が大龍柱(3代目)を製作する。(正面向き) | |
1713 | 尚敬1 | 尚敬 | 首里王府によって「琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)」が編集される。 | |
1715 | 尚敬3 | 〃 | 首里城正殿が竣工する。 | |
1718 | 尚敬6 | 〃 | 久米村に琉球初の学校「明倫堂(めいりんどう)」を創建する。 | |
1719 | 尚敬7 | 〃 | 玉城朝薫(タマグスクチョウクン)が冊封使歓待(さくほうしかんたい)の重陽之宴(ちょうようのうたげ)で「組踊(くみおどり)」を初演する | |
1721 | 尚敬9 | 〃 | 円覚寺・大殿(龍淵殿)が失火で焼失するが、ただちに再建され、同年、大殿中央壇に仏像を安置し、左右に先王七世以下の神位を奉安する。 | |
1725 | 尚敬13 | 〃 | 蔡温(サイオン)が「中山世譜(ちゅうざんせいふ)」を改訂する、 | |
1725 | 〃 | 〃 | 首里・那覇・泊・久米の居民の丁銭を取りやめて、士族が諸職に就くこと(士族の職人化)が許可される。 | |
1729 | 尚敬17 | 〃 | 首里城正殿を重修し、正殿の玉座(ぎょくざ)(御差床(うさすか))を中央に移し「唐玻豊(からはふ)」と改名する。 | |
1731 | 尚敬19 | 〃 | 首里王府が鄭秉哲(テイヘイテツ)に命じて、地誌「琉球国旧記(りゅうきゅうこくきゅうき)」を編纂する。 | |
1732 | 尚敬20 | 〃 | 蔡温らによって位階昇進の細目を記した「位階定(いかいさだめ)」が制定され、「御教条(ごきょうじょう)」が発布される。 | |
1733 | 尚敬21 | 〃 | 進貢船の新航路が発見される。 | |
1734 | 尚敬22 | 〃 | 蔡温が農業の制度や経営について、6つの大項目からなる「農務帳(のうむちょう)」を交付する。 | |
1734 | 〃 | 〃 | 「平敷屋・友寄事件(へしきや・ともよせじけん)」が起こる。 | |
1735 | 尚敬23 | 〃 | 蔡温が「羽地大川(はねじおおかわ)」を改修する。 | |
1735 | 〃 | 〃 | 首里王府によって間切番所に備えられた行政規定文書「間切公事帳(まぎりくじちょう)」を発布する。 | |
1736 | 尚敬24 | 〃 | 蔡文溥(サイブンプ)が冠婚葬祭等に関する家のしきたりをまとめた「四本堂家礼(しほんどうかれい)」を編纂する。 | |
1737 | 尚敬25 | 〃 | 蔡温の指揮によって独自の大規模な測量による元文検地「乾隆検地(けんりゅうけんち)」が開始される。 | |
1744 | 尚敬32 | 〃 | 聞得大君御殿(ちふいじんうどぅん)が焼失する。 | |
1745 | 尚敬33 | 〃 | 鄭秉哲(テイヘイテツ)が歴史書「球陽(きゅうよう)」を編纂する。 | |
1753 | 尚穆2 | 尚穆 | 寝廟殿(しんびょうでん)、世添御殿(よそえうどぅん)を創建する。 | |
1754 | 尚穆3 | 〃 | 中国の制に倣い、奉神門(ほうしんもん)の中央の屋根を周囲より高くし、出入口中央を国王や中国からの冊封使等限られた身分の高い人だけが通れるよう「1棟3門(いっとうさんもん)」に改修する。 | |
1756 | 尚穆5 | 〃 | 清が再度、琉球国王印を下賜する。 | |
1759 | 尚穆8 | 〃 | 「恵姓家譜(けいせいかふ)」田里里之子親雲上(タサトサトゥヌシペーチン)による「勅使様より龍桶に御建立の碑文の根留ならびに百浦添真正面の龍柱修補等相調」の件。 | |
1759 | 〃 | 〃 | 久米島に天后宮(てんこうぐう)を建立する。 | |
1760 | 尚穆9 | 〃 | 大地震が発生し、首里城城壁57ヶ所が損壊する。 | |
1768 | 尚穆17 | 〃 | 「百浦添御殿普請付御絵図并御材木寸法記(ももうらそえうどぅんふしんにつきみえずならびにございもくすんぽうき)」が成立する。(正面向き×相対向き) | |
1768 | 〃 | 〃 | 大地震が発生し、首里城などに被害が出る。 首里城正殿の大規模修復が行われる。 |
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1771 | 尚穆20 | 〃 | 明和の大津波(めいわのおおつなみ)が発生する。 | |
1772 | 尚穆21 | 〃 | 沖縄本島で疫病が流行する。 | |
1786 | 尚穆35 | 〃 | 琉球王国初の成文法(刑法典)「琉球科律(りゅうきゅうかりつ)」と裁判実務を行う際の注意事項をまとめた「糺明法条(きゅうめいほうじょう)」、「褒奨条例(ほうしょうじょうれい)」を制定する。 | 天明の大飢饉(1782年) |
1798 | 尚温4 | 尚温 | 中城御殿(なかぐすくうどぅん)に最高学府である公学校所「国学(こくがく)」を創建する。 政府高官を含めた久米村出身者の粛清を断行した「官生騒動(かんしょうそうどう)」が起こる。 |
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1799 | 尚温5 | 〃 | 識名園(しきなえん)が造営される。 | |
1801 | 尚温7 | 〃 | 公学校所を龍潭のほとりに移転し「国学(こくがく)」と改称する。 | |
1803 | 尚成1 | 尚成 | 聞得大君御殿(ちふぃじんうどぅん)に鐘撞堂(かねつきどう)と西御番所(いりぬうばんじゅ)を建立する。 | |
1804 | 尚灝1 | 尚灝 | 中国福州(ふくしゅう)の柔遠駅(じゅうえんえき=福州琉球館)が失火で焼失する。 | |
1811 | 尚灝8 | 〃 | 首里城正殿の大規模修復が行われる。 | |
1816 | 尚灝13 | 〃 | 艦長バジル・ホール率いるイギリス軍艦「ライラ号(Lyra)」が「アルセスト号(Alceste)」とともに那覇に投錨し琉球国王への謁見を要請したが、謝絶される。 | |
1825 | 尚灝22 | 〃 | 風干害による大飢饉が起こり、蔵を発して人民に食料を供するが、多数の餓死者を出す。 | 異国船打払令(1825年) |
1828 | 尚灝25 | 〃 | 父である尚灝王(ショウコウオウ)が病のため、世子・尚育(ショウイク)が摂生となる。 | |
1832 | 尚灝29 | 〃 | 「琉球科律」を補追する「新集科律(しんりゅうきゅうかりつ)」を制定する。 | |
1832 | 〃 | 〃 | 暴風と旱ばつにより、餓死者2,455人、小奇病発生死者1,473人を出す。 | |
1837 | 尚育3 | 尚育 | 国学に隣接して聖廟(せいびょう)と孔子の父らを祀る「啓聖祠(けいせいし)」を建立する。 | 大塩の乱(1837年) |
1837 | 〃 | 〃 | 文廟(ぶんびょう)(孔子廟(こうしびょう))を創建する。 | |
1842 | 尚育8 | 〃 | 南京条約締結により、福州が開港場となる。 | |
1844 | 尚育10 | 〃 | 仏国軍艦「アルクメーヌ号」が那覇に入港し、和好・貿易を求める。回答は、後来する艦船にするように託し、宣教師フォルカードを那覇に残して中国へ向かう。 | |
1846 | 尚育12 | 〃 | 英宣教師ベルナルド・ベッテルハイムが那覇に上陸する。 ※琉球政府や薩摩藩の監視下で迫害を受けながらも住民に医薬を施し英語や科学を教え、さらに新約聖書の琉球語訳も行いました。 |
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1846 | 〃 | 〃 | 首里城正殿の大規模修復(琉球最後の修復)が行われる。 | |
1851 | 尚泰4 | 尚泰 | ジョン万次郎が小船「アドベンチャー号」で糸満の大度浜に上陸し、番所で取り調べを受けた後、薩摩へと送られる。 | |
1852 | 尚泰5 | 〃 | 石垣島で「ロバート・バウン号事件」が起こる。 | |
1853 | 尚泰6 | 〃 | 米艦隊司令長官ペリー提督が来航し、強制的に「琉米修好条約(りゅうべいしゅうこうじょうやく)」を締結する。条約の内容は、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、米人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものである。 | 黒船が浦賀に来航(1853年) |
1854 | 尚泰7 | 〃 | 宮古島で疫病が流行する。 | |
1855 | 尚泰8 | 〃 | 琉球王国とフランス第二帝政(フランス帝国)が通商条約「琉仏修好条約(りゅうふつしゅうこうじゃうやく)」を締結する。 | |
1857 | 尚泰10 | 〃 | 島津斉彬(シマヅナリアキラ)の命により市来四郎(イチキシロウ)が来琉し、フランスとの交渉に当たる。 | |
1858 | 尚泰11 | 〃 | 市来四郎らと仏人との軍艦購入の交渉が成立するが、島津斉彬が死去したため頓挫する。 | 日米修好通商条約(1858年) |
1859 | 尚泰12 | 〃 | 琉球王国とオランダ王国が通商条約「琉蘭修好条約(りゅうらんしゅうこうじょうやく)」を締結する。 | 桜田門外の変(1860年) |
1861 | 尚泰14 | 〃 | 文替(もんがわり)が始まる。 | |
1862 | 尚泰15 | 〃 | 薩摩が異国通事(通訳)牧志朝忠(マキシチョウチュウ)の送還を通達する。 牧志朝忠が伊平屋島沖合いで自殺する。 |
薩英戦争(1863年) |
1866 | 尚泰19 | 〃 | 英国商船が竹富沖にて座礁する。 | 薩長同盟(1866年) |
1866 | 〃 | 〃 | 尚泰(ショウタイ)の冊封(さくほう)式典が行われる。 | |
1868 | 尚泰21 | 〃 | 明治改元の太政官令が琉球に通達される。 | 大政奉還(1867年) |
1871 | 尚泰24 | 〃 | 宮古島島民を乗せた宮古船1隻が台湾近海で遭難し、台湾に漂着するが台湾原住民に殺害される「宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)」が起こる。 | 戊辰戦争(1868年) |
1872 | 尚泰25 | 〃 | 明治政府は、東京に維新慶賀使(いしんけいがし)を呼び、尚泰王を「琉球藩王(りゅうきゅうはんおう)」に任命することを告げる。 | 廃藩置県(1871年) |
1872 | 〃 | 〃 | 琉球藩が設置され、尚泰王は華族とし、政府から東京藩邸を下賜される。 明治政府「琉球藩」とする措置を言い渡す。 |
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1873 | 尚泰26 | 〃 | 明治政府は、従来琉球から薩摩藩へ派遣されていた年頭使を、東京藩邸へ派遣(在勤)するよう命じる。 | 明治六年の政変 |
1874 | 尚泰27 | 〃 | 最後の進貢船を派遣する。 | |
1875 | 尚泰28 | 〃 | 琉球処分官・松田道之(マツダミチユキ)が来琉し、明治政府の方針を伝える | |
1875 | 〃 | 〃 | 清との国交停止・藩王上京などの命令が伝えられる。 | |
1876 | 尚泰29 | 〃 | 幸地朝常(コウチチョウジョウ)が琉球救国を清国に訴えるため、林世功(リンセイコウ)、蔡大鼎(サイタイテイ)らと清に亡命する。 | 西南戦争(1877年) |
1877 | 尚泰30 | 〃 | レベルテガット少尉(ルヴェルテガ)の写真を元にブイヤールが下絵を描き、コールによる首里城正殿の木版画が制作される。(原型で正面向き) | |
1877 | 〃 | 〃 | 首里城正殿が火災により一部損壊する。 | |
1878 | 尚泰31 | 〃 | 松田道之が伊藤博文に「琉球処分案(りゅうきゅうしょぶんあん)」を提出する。 | |
1879 | 尚泰32 | 〃 | 尚泰王が廃藩置県の強行によって廃位となり、首里城を明け渡し(琉球処分)、政府の命令に従い上京する。(原型で正面向き) ※首里城は、1896年(明治29年)まで日本陸軍「熊本鎮台沖縄分遣隊(くまもとちんだいおきなわぶんけんたい)」の駐屯所に転用される。(原型で正面向き) |
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1879 | 明治12 | 3月27日、沖縄県が設置される。 | ||
1881 | 明治14 | 上杉県令・・・大きな口を開け、目が・・・と、当時の龍柱が正面向きであることを記述している。 | ||
1882 | 明治15 | ギルマールが沖縄を訪問する。(原型で正面向き) | ||
1894 | 明治27 | 仲宗根真補筆「首里旧城の図」、龍柱・歓会門の獅子像ともに向き合う形で描かれている。同時期の伊藤勝一資料の写真と比較すると、歓会門の門衛舎、ガス灯、「熊本鎮台分遣隊・・・」の看板は一致するが、写真では獅子像、龍柱は正面向きである。従って、絵図の描き方が描きやすい方法をとっている事が証明できる。 | ||
1908 | 明治41 | 中山門(ちゅうざんもん)が老朽化により取り壊される。 | ||
1923 | 大正12 | 首里市が老朽化の著しい首里城正殿を解体することを議決する。 「龍頭棟飾」を壊している際、鎌倉芳太郎(カマクラヨシタロウ)、伊東忠太(イトウチュウタ)博士の計らいで中止される。 |
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1924 | 大正13 | 首里城正殿を史跡名勝天然記念物として指定し、沖縄神社拝殿とする措置を講ずる。「龍頭棟飾」が新たに造られる。 | ||
1925 | 大正14 | 首里城正殿を特別保護建造物に指定する。 | ||
1928 | 昭和3 | 首里城正殿の解体修理が始まる。(昭和8年竣工)当時工事に関わった文部省技官であった森政三(モリマサゾウ)(戦後の守礼之門を復元)が、大龍柱の向きについて「向きも明治の廃藩置県以降正面を向いていたが、解体修理を受けた際向き合って建てられた」と述べている。(「写真集沖縄」P11、1984年9月 那覇出版社) 解体修理後に大龍柱が向き合っている写真を見た比嘉春潮(ヒガシュンチョウ)が、伊東忠太博士にその事を話したところ「それは誤りだ、修復を監督した役人に話そう」と言ったが、第二次世界大戦勃発で実現できなかったと述べている。(「比嘉春潮全集第五巻 首里城正殿の龍柱」、1971年 沖縄タイムス社) |
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1929 | 昭和4 | 首里城正殿が国宝に指定される。 | ||
1933 | 昭和8 | 歓会門、瑞泉門、白銀門、守礼門、円覚寺、崇元寺、園比屋武御嶽、石門などが国宝に指定される。 | ||
1936 | 昭和11 | 首里城北殿が沖縄郷土博物館となる。 | ||
1945 | 昭和20 | 沖縄戦により首里城が全壊する。 |